Masuk第85話 私が拒めば、凍結胚は卵子提供者の身体へ戻される予定でした
早瀬七海さんへ電話を掛けたのは、私だった。
芙美さんは代理人から説明したほうがいいと言い、真壁さんも、候補者一覧の真正性を確認してから連絡すべきだと慎重な意見を述べた。二人の判断は正しかったと思う。それでも、自分の名前が母体候補として勝手に登録されていた経験を持つ私が、同じ目に遭っている七海さんのことを、本人が知らない場所で協議し続けるのは耐えられなかった。
電話は二度目の呼び出し音でつながった。
『どうしたの。Cに何かあった?』
七海さんは挨拶より先に、凍結胚の状態を尋ねた。母親を名乗るつもりはないと言いながら、何かあれば気にせずにはいられない。その矛盾を、私はもう無責任だとは思わなかった。
「Cは凍結されたままです。保存状態にも問題はありません。ただ、あなたに関係する新しい記録が見つかりました」
『また私の卵子から何か作っていた、という話なら、驚ける自信がないわ。最近は、自分の身体について知るたび、他人の
第85話 私が拒めば、凍結胚は卵子提供者の身体へ戻される予定でした 早瀬七海さんへ電話を掛けたのは、私だった。 芙美さんは代理人から説明したほうがいいと言い、真壁さんも、候補者一覧の真正性を確認してから連絡すべきだと慎重な意見を述べた。二人の判断は正しかったと思う。それでも、自分の名前が母体候補として勝手に登録されていた経験を持つ私が、同じ目に遭っている七海さんのことを、本人が知らない場所で協議し続けるのは耐えられなかった。 電話は二度目の呼び出し音でつながった。『どうしたの。Cに何かあった?』 七海さんは挨拶より先に、凍結胚の状態を尋ねた。母親を名乗るつもりはないと言いながら、何かあれば気にせずにはいられない。その矛盾を、私はもう無責任だとは思わなかった。「Cは凍結されたままです。保存状態にも問題はありません。ただ、あなたに関係する新しい記録が見つかりました」『また私の卵子から何か作っていた、という話なら、驚ける自信がないわ。最近は、自分の身体について知るたび、他人の持ち物の取扱説明書を読まされている気分になるの』「移植先の記録です。私がCの移植を拒否した場合に備えて、代わりに妊娠を担わせる候補者が選ばれていました。その最初に、七海さんの名前があります」 電話の向こうから返事がなくなった。聞こえるのは、遠くを走る車の音と、衣服が擦れるかすかな音だけだった。「七海さん、いまどこにいますか。運転中ではありませんか」『家にいる。座っているから、そんな声を出さなくても大丈夫よ』「ごめんなさい」『謝るくらいなら、最初からもう少し上手に言って。まあ、どう言われても内容は変わらないけれど』 いつもの刺のある口調が戻ってきたものの、それで平気になったわけではないと分かった。私も驚いたときほど、どうでもいい部分の言葉遣いが気になることがある。相手の説明の粗を探しているあいだは、本当に怖いものへ向き合わずに済むからだ。『それで、あなたたちは私に何をさせたいの? Cは私の卵子から作られたから、あなたが嫌なら私が産むべきだとでも言うの?』
第84話 亡き夫の求婚状には、「澪をCの母にしない」と書かれていました 冬真さんの手紙を開かなかった夜、私はほとんど眠れなかった。 読まないと決めたのは自分なのに、目を閉じるたび、封印された文書の冒頭だけが勝手に頭へ浮かんだ。彼は父に何を訴え、何を約束して私との結婚を認めさせようとしたのか。研究対象として近づいたことを、どんな言葉で愛情へ言い換えたのか。あるいは、本当に私を愛していたのだと、死んだ人にしか言えない美しい文章で主張しているのかもしれない。 隣の寝室にいる朔也も起きているらしく、午前二時を過ぎても床を踏む音や、水道の蛇口をひねる音が聞こえた。仮住まいの部屋は広くないのに、私たちは別々の寝室を使っている。出産後の私が眠りやすいようにという理由だったが、本当は、どちらも相手へどこまで近づけばいいのか分からないだけなのだと思う。 明け方近くになって、私は寝室の扉を開けた。 居間では、朔也がソファに座り、消音したテレビに映る天気予報を眺めていた。手には湯気の消えたマグカップがあり、テーブルには開封したものの一枚も減っていないクラッカーが置かれている。「眠れないなら、声を掛けてくれればよかったのに」「澪こそ。俺は、水を飲みに起きただけだ」「午前二時からずっと?」「喉が渇きやすい夜だった」「そんな言い訳で患者を納得させていたなら、資格停止が解けても医療関係の仕事へ戻さないほうがいいわね」 私が隣へ座ると、朔也はマグカップを持ったまま少し場所を空けた。逃げたというほどではなく、私が横になりたければ足を伸ばせる程度の距離だった。そういう気遣いをされると、こちらから近づきたくなるのだから、人の心は面倒である。「冬真さんの手紙を、読まないと決めたことを後悔しているわけではないの。ただ、読まないあいだも中身を考えてしまうなら、結局、あの人に時間を使わされているような気がして腹が立つのよ」「兄さんなら、死んだあとまで澪を悩ませられることを喜びそうだ」「そんなに性格が悪かったかしら」「悪かった。本人は、相手に考える機会を与えているつもりだ
第83話 凍結胚を作らせた父は、私を救うために他人の子を作っていました 父の名が表示された封印記録は、独立代理人が選任されるまで開けなかった。 待たされたのは三日間だけだったが、その三日は、これまで経験したどの三日とも時間の流れ方が違っていた。灯の呼吸状態は安定し、心拍の乱れも一度あっただけで、外部ペーシング装置が作動することはなかった。喜ぶべき経過なのに、保育器の前に座っていると、あの子の小さな身体の中にあるものまで、父や冬真さんがずっと以前から計算していたのではないかという疑いが湧いてくる。「おじいちゃんが始めたことらしいよ」 保育器の窓から手を入れ、灯の掌へ人差し指を触れさせると、頼りない力で握り返された。娘に話して聞かせるには、あまりにも夢のない家族の昔話だった。「でも、お母さんにもまだよく分からないの。分からないことを分かったふりで教えると、うちではろくなことにならないみたいだから、あなたにはちゃんと調べてから話すね」「新生児に話す内容としては、かなり堅いな」 背後から聞こえた朔也の声に振り向くと、彼は看護師の確認を受けながら、貸し出し用のガウンを着ていた。電子資格の利用停止は解除されていないため、今日も職員の立ち会いがなければ灯のそばへ来られない。それでも、最初の頃のように苛立ちを態度へ出すことはなくなり、本人確認を一つずつ受け入れている。「赤ちゃんだから何も分からないと思って、都合のいいことだけ話す大人にはなりたくないの」「分からないなら、せめて楽しい話をしてやれ。昨日、俺がおむつを替えたら、看護師に前後が逆だと指摘されたこととか」「それは灯より、将来のあなたのために記録しておいたほうがいいわね。育児に協力したと言い張ったときの反証資料になるから」「すでに看護記録へ残されているかもしれない。今日の担当者は笑いを堪えるのが下手だった」 朔也が保育器の反対側へ回ると、灯は私の指を握ったまま、そちらへ顔を動かそうとした。声を聞き分けているのか、偶然なのかは分からない。それでも朔也は嬉しそうに目元を緩め、周囲に人がいることを思い出したように、すぐ真面目な顔へ戻った。
第82話 知らない胚を移植される日、私は説明を求めて病院を出ていました 私の身体に、私の知らない胚を迎える準備が施されていた。 その事実を知った翌朝、私は篠崎先生の診察室で、腹部に塗られた冷たいジェルの感触に耐えながら、天井の小さな染みを見つめていた。出産後の身体はまだ自分のものに戻りきっておらず、検査台に横たわっているだけで、使いすぎた道具の点検を受けているような気持ちになる。けれど、本当に恐ろしかったのは傷や痛みではなく、私自身の記憶よりも詳しく私の身体を知っている記録が、どこかに残っていることだった。 篠崎先生は機器の画面を確かめたあと、私の腹に当てていた器具を静かに離した。「現在の所見だけで、当時どこまで投薬を受けたのか、胚移植の直前まで進んでいたのかを断定することはできません。処方記録にあるのは、子宮内膜を整えるためのホルモン剤と、免疫反応を抑える目的だったと思われる薬、それに血液を固まりにくくする薬です。ただし、後ろの二つについては一般的な不妊治療の範囲を超える組み合わせで、AUR側の試験計画が混じっていた可能性があります」「可能性、ということは、薬を飲んだ記録だけでは、Cを移植されたかどうかは分からないんですね」「分かりません。少なくとも、Cの核遺伝情報を持つ妊娠が成立したという記録は、いま確認できている範囲にはありません。現在の身体を調べても、過去に短期間だけ移植を受けたかどうかまで遡って証明するのは困難です。ですから、今日の検査で何も見つからなかったことを、何もされなかった証拠だと思わないでください。同時に、最悪のことが起きていた証拠もない。そこは分けて考えましょう」 安心させるために曖昧な言葉を選ばず、分からないものは分からないと告げてくれる先生の話し方はありがたかった。それでも私は、渡されたタオルで腹を拭きながら、処方薬の一覧から目を離せなかった。そこには私の旧姓と、当時の患者番号と、朝夕の服用量が几帳面に並んでいる。「この薬、覚えています」 診察室の壁際に立っていた朔也が、わずかに身体を起こした。彼は診察のあいだ、私が頼むまで近づかず、だからといって遠くへも行かず、白衣を掛けるフックの隣という妙
第81話 娘を救うための胚を調べたら、移植先には私の名前がありました 退院した翌朝、私は目覚ましが鳴る一時間前に起き、灯から緊急連絡が来ていないことを確認してから、病院へ行く支度を始めた。 昨夜は眠れないと思っていたのに、いつの間にか寝台へ横になっており、二時間ほど意識を失ったように眠っていた。目を覚ました瞬間、自分が眠っているあいだに灯の心拍が下がっていたのではないかと胸が冷えたが、家族用画面には、外部ペーシングが短時間作動したあと、自力心拍へ戻っていることと、呼吸状態に変化がないことが記されていた。 私は同じ記録を三度読み、それでも安心できず、病棟へ電話をかけようとした。時計は午前五時を過ぎたばかりであり、緊急ではない確認を繰り返せば、灯だけでなく、ほかの新生児を診ている職員の時間まで使うことになる。それでも、母親なのだから聞く権利があるという考えが浮かび、権利があることと、今使う必要があることの区別がつかなくなった。「電話をかけたいのか」 背後から声をかけられ、振り向くと、朔也が寝室の入口へ立っていた。彼も眠れていなかったらしく、髪は乱れ、昨日の夜に替えたはずのシャツには、寝台へ横になった跡が残っていた。「起こしましたか」「君が四度目の画面更新をしたあたりで起きた」「見ていたのですか」「見ないふりをしていた。ただ、五度目を始めたら止めようと思っていた」「まだ四度です」「回数の問題ではない。連絡がないことも、今は状態が安定しているという情報だ」「電子権限を停止されている人に、画面の確認を減らすよう言われたくありません。あなたは自分で見られないので、諦めているだけでしょう」「そうだ。だから、見られる君が代わりに全部確認してくれれば安心すると思っていたが、君が画面へ張り付くのを見ると、俺まで苦しくなる」「それなら、病院へ電話しますか」「担当者が必要だと判断すれば、夜中でも連絡が来る。今、電話をかけないことへ罪悪感を持つなら、俺と一緒に朝食を食べて、予定どおり面会開始時刻に行こう。灯へ会うまで倒れない準備も、今できる世話の一つ
第80話 生まれたばかりの娘が、別の胚を融かすことへ同意したことにされました 凍結胚Cは、すでに長期保管区画から処置前区画へ移されていたが、融解そのものは始まっていなかった。 真奈が保存施設へ緊急停止を求めた時点で、予定時刻までは四十七分残っており、施設側も、朔也が申請を否定したことを受け、作業担当者を待機させていた。しかし、正式に中止するためには、申請者本人の認証を取り消すだけでなく、Cに関係する権利者の異議か、裁判所の保全命令が必要だという。「私の名前を無断で使った申請なのに、なぜ、俺が取り消すだけでは足りないのですか」 朔也は、真奈がつないだ保存施設の責任者へ、声を荒らげないよう努めながら尋ねた。退院したばかりの部屋には、まだ開けていない灯の寝台と、病院から持ち帰った薬の袋が並んでおり、その生活の途中へ、別の胚を融かすまでの残り時間だけが入り込んでいた。『申請には、久瀬朔也様のD提供者代理資格と、AUR‐011名義の受益者承認が付いています。現行制度上、複数の承認者のうち一人が撤回しても、残る承認の効力を施設だけで否定することはできません』「AUR‐011は、生まれたばかりの娘へ割り当てられた信託番号です。灯は、凍結胚を融かすことへ同意できません」『その点は理解しますが、当施設の登録上、AUR‐011は、久瀬灯様個人だけを指す名称ではなく、A、B、Cを含む継続研究対象の包括番号として残っています。出生後の信託番号と、研究上の包括番号が自動的に統合されており、どちらを優先すべきか、当施設では判断できません』「判断できないなら、動かさないでください。人の身体へ関わる試料を、承認が有効か分からないまま融かすほうがおかしいでしょう」『通常であれば、権利関係に争いが生じた時点で保留します。ただ、今回の申請には、保存期限に関する緊急判定が付いています。融解して生存性を確認しなければ、Cを今後も保存する医学的価値があるか判断できないとされています』「医学的価値がないと判断されたら、廃棄するのですか」『生存性が確認できなかった場合は、廃棄候補になります。ただし、法的な権利者の同意なく直ちに廃棄する







